昭和46年04月04日  特別奉修委員



 心に真心もなからなければ、喜びもない。それでも、やはり、事を成さなければならないと、いうような事がありますね、お互い。例えば、義理とか、お付き合いとかいったような場合があります。それこそ、今日は、なんかそういうような物に、そういうような事に、せまられておる事が実はあるのです。一つも、心が動かないですね。でもやはり、義理と言うか、まぁ務めというか、やはり、私でなからにゃいけないし、と言うて、動きたくもないような感じですね、やっぱり。
 それでその事を、こら、私が、大体は、実感派ですから、実感のないとこはもう形に表したくない。言わば、心に、「口に真を語りつつ、心に真のなきこと」と言ったような事が、今日は、そういう事になりそうなんですよね。と言うて、ほんなら、心に思うとる通りの事を言う訳にはいけませんしね。皆さんにもそんな事があるでしょう。その実感としておったら、ほんなお付き合いで、動かんならん、馬鹿らしい話ばってん、金も使わんならんと言う様な事があります。
 もう本当に、いやなんですけれども、それを、金光様、金光様とお縋りさせて頂きながら、まあ行じて行く訳でございますけれどね。だいたい、これは、どういう風なもんだろうかと思って、その今の御祈念中に、その事を思わせて頂いたらね、先日から私の誕生日に、お花を沢山そのようけ頂いておりましたんです、綺麗なお花を。それで、誰もあそこへ、それを扱う者もなかなければ、生ける者もいないもんですから。
 ところがその、昨日私は愛子さんに、文男先生にどうか生けあげてと申しておりましたもんですから、昨日丁度午後から、あんまり沢山あるもんだから、あっちこっち、あそこの、脇殿のお便所の、お手洗いに一杯差すしてありましょ、けれどもこの人はねお生花はもう手にいったもんですね、やっぱ性格ですね。もう本当に自分がああした、切ってちぎった様な性格ですから、もうそれはあのお生花見事です、あの人のはね。
 ところが、さぁ、曲げ花とか、投げ入れとかという事になると、稽古もしとらんという事ですけれども、けれども花を扱って、ずいぶん稽古もしとるんですから、花の扱い方ぐらいはね、私段、なぁん知らんでちゃ、私が入れた方が良か。例えば、投げ入れなら投げ入れでも、盛り花なら盛り花でもね。まっちっとどうか、感が働きそうなもんと思うくらいに下手なんです、もう実に下手です。かえって花が死んでしまうちいう様な感じです、あの人が花を入れますと。なかほうがよかち言うごたる感じです。
 それでも、昨日、一生懸命、あの人が入れております、見せて頂いて、皆さん、骨が折れるねて、私が申しました事でした。自分の好きな事なら骨も折れませんけれどね、自分が不得手だと思っておる事を、一生懸命やっておる、それを見てから、もう本当もう、あんた方、もうその、曲げ花でも、こういう花は、本当に下手くそで、生けるとば、まあ悪口も、と言うて、まあそういう意味で私、何時も申しますけれども、それでもやっぱり、かえって骨が折れてる訳ですね。
 そしたら私が、本当に骨が折れるねて言った時の事を頂くんですよ。ですからね、これはやっぱり、心にもない事でも、金光様、金光様と、ほんならおすがりして、昨日は、愛子さんが、花はあっちこっち入れて貰った事でありますようにね、もう花そのものはね、もう見られた花じゃないです、おかしいです。これだけの高い花、金で買ったら、ずいぶん高い花でしょうけども、皆、それが死んでしまってると言うか、かえって見苦しい、なんかいやな感じです、かえって。
 私は今日やらせて頂いたり、それをしなければならん事は、まぁいやな感じだろう、と思うんですけれどね。けれどやっぱり金光様、金光様とお縋りして行くならです、それを神様が修行としては受けて下さるようですね。「口に真を語りつつ、心に真のなきこと」という事を、もういっちょ超越しまして、もうほんなら心に真を感じさせて頂こうとしても、感じられない事があるんです。というてもやっぱり義理ですやっぱ人情です、やっぱお付き合いです。それをしなければならない事がある訳です。
 だからそういう時にはですね、矢張り一生懸命おすがりする事ですよ、出来る出来んんは別として。ほんなら愛子さんが昨日不得手の花をそれでも、まぁそこから摘んできた花ぐらいなら、どげんでんしますけれども、これだけ高価な沢山な花を、生けてさるかんならんけんやっぱ大変な、金光様金光様と言ったろうと思うんですよね。例えばほんなら、私が見て、「本当却って骨が折れるね」と言うて、それを労うような心持ちが、私の心の中から生まれて来るようにね。
 神様も私共がだからそういう所をなおざりにする事こそが、私は実意を欠くという事になると思うんですね。もう実感がわかんからせんと、言った様な事ではない。その辺の所をです例えば心に真がないから、もうせんという様な事ではなく、そこが生きておる人間のまぁ言うなら辛いところじゃないでしょうかね。けどもやっぱしなければならないでしょというて真の喜びも、一つも無いけどもそれを金光様、金光様で務めて行く、その事をほんなら神様が骨が折れるねと言うて、労うて下さる様なものを感じますですね。言わば、修行で受けて下さるという事なんですよ。